「楽天」は、「楽天家」「楽天的」などのように、
現実を肯定的に受け入れる楽観的な人生観を言うが、
もとは『易経』
(中国、周代の占いの書。五経の一。
経文と解説書である「十翼」をあわせて一二編。
陰と陽を六つずつ組み合わせた六四卦(け)によって
自然と人生との変化の法則を説く。
「十翼」は、これに儒家的な倫理や宇宙観を加えて解説してある。
古来、伏羲(ふつき)氏が卦を画し、周の文王が卦辞を、
周公が爻辞(こうじ)を、孔子が「十翼」をつくったといわれるが根拠はない。
周易。易。)
繋辞伝
(「易経」に付された解説書「十翼」の編名。
上下二編。成立は秦・漢の頃か。
周易を儒家の立場から体系的・統一的に把握。
孔子の作ともいうが疑わしい。)
の言葉である。
「天を楽しみ命を知る、故に憂えず」。
「楽天知命」は四字句の成語(熟語)で、
今でも中国語では常用される。
「知命」は、『論語』にいう「五十にして天命を知る」の場合と同義としてよい。
人知の遠く及ばない天の定めた運命に、
ありのままに順応してゆく態度をいっている。
単なるのんきな処世態度をいうのではない。
この「楽天知命」を名実ともにモットーとして生きたのが、
唐の詩人白居易、
字
(アザナ。中国で、男子が成人後、実名のほかにつけた名。
実名を知られることを忌(い)む風習により生じ、
字がつくと実名は諱(いみな)といってあまり使わなかった。)
は楽天、である。
彼は才知あふれる新進エリート官僚だったが、
直言がたたって、地方官に左遷の憂き目を見た。
その時の落胆は大きかったに違いないが、
彼は字の「楽天」そのままに、やがてそれを天命として受けとめ、
与えられた境遇の中に自分の楽しみを見出していった。
六十八の晩年には、中風
((1)脳出血・脳梗塞や脳軟化により、
運動機能障害ことに痙性(けいせい)片麻痺や言語機能障害をきたした状態。中気。風疾。
(2)〔風(かぜ)に中(あた)る意〕古く、かぜを引くこと。)
を患って身体のしびれに悩まされながら、
やはり「楽天」の精神を保って、大きな危機を乗り越えた。
「枕上(ちんじょう)の作」という病中の詩の結びには、
『易経』の言葉をもじってこういっている。
若し楽天(私)に病を憂うるや否なと問わば
天を楽しみ命を知れば 了(つい)に憂えず
「楽天」と「知命」とは、いわば車の両輪のような関係にある。
<京都国立博物館長 興膳 宏氏>